手加減するのが当たり前?子供にも全力です!

2016 01 08 1

ぼくの中で毎月の恒例というか習慣になっていけばいいなと、ブロガーの共同メルマガ「Edge Rank」の共通のテーマ「おとな」ということで今月も便乗します!

さて、おとな=大人と書きます。「おとな」ということは、単純に大きい人ということ。大きいというのも色々ありますよね。頭が大きい、手が大きい、足が大きい、体が大きい、知識が大きい(豊富)、経験が大きいと大きいもの。これは年を重ねることで得られるものです。

体のおとな化

最初におとなになってきたなって判断できるところは、見た目「体の変化」です。男性、女性それぞれその変化に驚き、とまどい、悩み傷つきながら成長していくものです。大人への線引き、一番わかり易い境界線は体の変化だと思うんですよね。

人によって捉え方は違うかと思います。成人式がきたら、二十歳という年齢で分ける考え方、選挙権が得られる18歳からという考え方。色々。ぼくなんて18歳で高校を卒業したときに、タバコが吸えてお酒が飲めるぞー!って息巻いてました。でも間違ってはいけませんコレ「二十歳」からですから!!(笑)タバコが吸える、お酒が飲めるから大人になったって思ってませんでした。

頭の中身が変化すること

やっぱり考え方は浅はか、知識もないし今みたいに情報も取りに行くにしても取りにくく、少ないから余計でした。社会とは!っていう一般常識。モラルっていうしがらみに縛られて自由ではなくなっていく。守らないといけないいう強迫観念も出てくる。がんじがらめになっていくことで「おとな」ということを肌で感じて、頭で理解していくのだと。

ぼくの場合だと、転職をしまくっているので色々と経験をしてきました。それこそ、ホテルマンや販売員などの接客業から、肉体労働、事務や飛び込み営業からルート営業まで色々やってきました。たくさんの人と会って、立場や職業が違えば考え方や知識も全然違う。大人だなって思うことはあっても子供だなって思うことはありません。

そういった人を見ていて「おとなだー」って思うってことは、ぼくはまだ子供のまま。おとなになっていないって感じています。これってまだ成長できるってことなんだと認識しています。

おとなと認識することで終わる

常々意識していることは、変化しないとダメ、変化しないと成長がなくなるって思っています。同じ変化でも大人へと変化したと「認識すること」で成長は止まっている。

なぜか?

ぼくには自分の子供はいませんが、姪っ子や甥っ子、友人の子供とたくさん見ていると「子供の発想ってめちゃくちゃ凄い」とびっくりします。絵を一緒に描いていても、こんな捉え方、見方をするのかーとか。遊び方でもいきなり両手をもたれて、ぼくの体を蹴りながらバク転の要領で回転するとか、びびります(笑)

そうです、この発想力アイデアですよ。子供心(童心)をいつも持っていたいなって思う、おとなになりたくないなって思っているからこそ出てくるんじゃないかって思って生活しているんですね。まぁ実際、大人だろって言われそうですが、今まで誰からも「もう大人でしょ」「大人だね」って言われたことないから、今だに認識してないですよ?(笑)

ぼくはまだ大人って思っていませんよ!だって言われてないから。だって「子供だなぁ〜」って言われることはあるけど「大人だな〜」って言われたことないですもん!ヘリクツ?(笑)

どうありたいか

ずっと子供のままでいたい。子供って正直じゃないですか。赤ちゃんなんて特に凄いです。お腹減ったから泣く、おむつで気持ち悪いから泣く、眠いから泣くってもうわがまま放題。こんなわがまま放題したいと思いません?(笑)これは言い過ぎですけど、自分に正直でありたいって思います。唯一そうできるかもしれない存在ってのがあります。それは「両親にとってぼくはいつまでたっても子供」であるということ。おそらく大人になったという人でも両親と自分だけになったら、両親の前では子供でいれると思います。

線引きはどうすべき?

ぼくにはおとなの定義っていうのはありません。子供がいたとしても、子供に花を持たせるってことはしません。負けまいと全力でやります。大人げない?大人げないってなんですかそれ。社会ってのは厳しいんです。泣かせてもいいから全力です。もっともらしいことを書くと「獅子はわが子を千尋の谷に落とす」っていうじゃないですか!と言っておきましょう(笑)

そりゃ、手加減するのは分かりますけどね、それって子供にとっては本当にいいことか?って考えるといいことないんですよ。自分とぼくとの差がどれくらいあるかって分かる方が絶対にいいんです。そこで泣くならそれまで。悔しいちくしょーって思ったらそれだけ強くなれますよ。

子供に対して優越感を得たらいいんですよ。そうして笑って「どうや〜!」ってやってればいい。怖い顔さえしなければいい。そうしたらなんだかんだとお互い笑顔になりますって。ここは慣れもあるでしょうけどねー。

まとめ

おとなって感じたときが大人で、人によって違う】が結論になるのかなぁ。ぼくの理想としては、

人が最期を迎える死。死んだときの遺体とは寿命の年数をかけて作られた完成品という考え。そのときに親族や、友人が、あの時に大人になったなって話しているのを天国で(地獄かもしれませんが笑)聞いたら、そのときが大人だったって思えるのかなっていう話です。

大人だとなるのは、ぼくの場合は自分で判断するのではなく、ぼく以外の人に判断してもらうという他人依存です。

ゆるくいこー。

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